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大阪地方裁判所 昭和47年(ワ)1678号 判決 1979年9月27日

原告 橋田昭一

原告 冨野隆司

右両名訴訟代理人弁護士 小牧英夫

同 西村忠行

同 原田豊

被告 日本自転車振興会

右代表者会長 岡村武

被告 近畿自転車競技会

右代表者会長 永瀬眞悦

右両名訴訟代理人弁護士 風間克貫

同 今井征夫

主文

一  被告両名は連帯して、原告橋田昭一に対し、金二〇三万九、一〇七円及びこれに対する昭和四七年四月二八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、原告冨野隆司に対し、金二一七万六、六八〇円及びこれに対する昭和四七年四月二八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告両名の被告両名に対するその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを五分し、その四を原告両名の連帯負担とし、その余を被告両名の連帯負担とする。

四  この判決は、主文第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告日本自転車振興会は原告橋田に対し、金七三万九、四四一円及びこれに対する昭和四六年一月一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、原告冨野に対し、金八二万六、七〇八円及びこれに対する昭和四六年一月一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告両名は連帯して、原告橋田に対し、金一、六八五万五、五一二円及びこれに対する昭和四七年四月二八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、原告冨野に対し、金二、二九四万四、一八四円及びこれに対する昭和四七年四月二八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告両名の負担とする。

4  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告両名の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告両名の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1(一)  被告日本自転車振興会(以下「被告日自振」という。)は、自転車競技法によって設立され、同法及び同法第一二条の一八にもとづいて制定された「競輪に関する業務の方法に関する規程」(昭和三二年一〇月一日三二重第一二、三二二号認可、以下「業務規程」という。)等に従って、審判員、選手の登録、自転車競技会の指導、選手の出場のあっせん、その他競輪実施に関する主要な業務を行なう特殊法人である。

(二) 被告近畿自転車競技会(以下「被告近自競」という。)は、自転車競技法によって設立され、競輪施行者(市町村)から委託を受けて、各選手に対する競輪参加許可をはじめとする競輪の開催実施の一切の業務を行なうほか、被告日自振から委託された業務を行なう特殊法人である。

(三) 原告橋田は、昭和二五年七月二五日登録番号第五、〇九九号をもって被告日自振に登録されたB級の競輪選手である。

(四) 原告冨野は、昭和二四年七月一八日登録番号第八一一号をもって被告日自振に登録されたA級の競輪選手である。

2(一)  被告日自振は、昭和四五年八月六日原告橋田に対し、また同年七月二〇日原告冨野に対し、それぞれその日付をもって業務規程第一二六条第一項第三号にもとづき、「不正競争の疑い及び背後関係の調査のため」と称して出場のあっせん保留を行なった。その後、被告日自振は、原告橋田に対しては昭和四五年一一月二三日付をもって、また原告冨野に対しては同月二〇日付をもって、それぞれ右あっせん保留の解除を行なったが、右解除後においても、原告両名に対し出場のあっせんをしなかった。

(二) 被告近自競は、昭和四五年一二月二四日被告日自振に対し、原告両名についてあっせんの辞退をし、以後あっせん辞退の状態を継続した。

(三) 原告両名は、いずれも昭和四七年四月二〇日被告近自競を経て、被告日自振に対し選手登録の消除を申し出、同月二八日付で登録を消除されたが、右は、被告両名の長期間にわたる違法なあっせん保留及びあっせん辞退のために、原告両名としては収入の道を絶たれ生活に困窮するとともに、将来いつになれば出場できるかも知れず、選手として再起することを断念せざるを得なくなったからである。

3(一)  被告日自振は、本件の違法なあっせん保留について、次の通り不法行為責任及び債務不履行責任を負うべきものである。

(1) 競輪選手は、所定の資格検定試験に合格して被告日自振に登録された者でなければならず、これらの者は競輪に出場することを職業としているものである。従って、競輪選手は競輪に出場する権利を有するものである。

そして、被告日自振は、その業務として、選手の出場あっせんを行ない(自転車競技法第一二条の一六第一項第三号)、他方、競輪選手は、被告日自振から出場のあっせんを受けなければ競輪に出場できない。従って、被告日自振は、競輪選手の前記競輪に出場する権利にもとづき、公正に出場あっせんを行なう義務を有し、競輪選手はこれを受ける権利を有するものである。

そうすると、被告日自振は、競輪選手が業務規定第一二六条第一項の各号に該当する事由が生じた場合には出場あっせんを保留することができるのであるが、右各号に該当する事由がないにもかかわらず出場あっせんを保留した場合には、右義務に違反するものであり、競輪選手に対し、不法行為責任を負うのはもとより債務不履行責任をも負うべきである。

(2) しかるに、被告日自振は、本件において、原告両名に対し、何ら業務規定第一二六条第一項の各号に該当する事由がないにもかかわらず、前記2の通り違法なあっせん保留を行なったものであるから、これによって受けた原告両名の後記損害を賠償すべき義務がある。

(二) 被告両名は、本件の違法なあっせん辞退について、次の通り不法行為責任及び債務不履行責任を負うべきものである。

(1)(イ) 競輪選手は、前記の通り競輪に出場する権利を有するのであるから、右権利を実現するために、自転車競技会は競輪選手と出場契約を締結すべき義務がある。もっとも、自転車競技会は、競輪選手についてやむを得ない理由がある場合には、競輪施行者と協議のうえ、被告日自振に対しあっせんを希望しないことができるのであるが(業務規程第一二四条)、この「やむを得ない理由」については、もとより合理性を有するものでなければならない。

そして、自転車競技会が、やむを得ない理由がないにもかかわらずあっせん辞退をした場合には、右義務に違反することとなり、不法行為責任はもとより債務不履行責任をも負うべきである。

(ロ) また被告日自振は、一般的に競輪の実施に関し自転車競技会を指導すべき立場にあり、従って自転車競技会が競輪選手についてやむを得ない理由がないにもかかわらず違法にあっせん辞退をした場合には、これに対し適正に指導し、あっせん辞退を解除するよう指導すべき義務がある。そして、被告日自振は、競輪選手に対してかような義務を負担するものである。

従って、被告日自振が右の義務に違反し、自転車競技会が違法にあっせん辞退をした場合に、これに対し適正に指導してあっせん辞退を解除させなかったときには、競輪選手に対し不法行為責任を負うのはもとより、債務不履行責任をも負うべきである。

(2)(イ) しかるに、被告近自競は、前記2(二)記載の通り何らやむを得ない理由がないにもかかわらず、あっせん辞退をなし、その状態を継続した。

(ロ) また、被告日自振も、被告近自競がやむを得ない理由なくあっせん辞退をしたにもかかわらず、これに対して何ら適正な指導もせずに放置し、その結果あっせん辞退の状態が継続することとなった。さらにいえば、本件においては、全国のすべての自転車競技会が歩調をそろえて、原告両名につきあっせん辞退を行なったのであるが、このようなことは全く前例のないことであり、これは被告日自振が被告近自競に対し、消極的に何ら適正な指導もせずに放置したというにとどまるものではなく、原告両名をすべての競輪に出場させないようにするため、各自転車競技会に対し積極的にあっせん辞退を行なうよう指導したことによるものである。

(ハ) 以上の通り、被告両名は共同して違法行為を行なったのであるから、これによって受けた原告両名の後記損害を連帯して賠償すべき義務がある。

4、5《省略》

二  請求原因に対する被告両名の認否《省略》

三  本件あっせん保留及びあっせん辞退の適法性についての被告両名の主張

1  本件あっせん保留及びあっせん辞退は、それぞれ業務規程第一二六条第一項第三号及び第一二四条にもとづいてなされた適法なものであるが、まず、被告両名の一般的性格、あっせん、あっせん保留及びあっせん辞退の各意義及び手続は次のとおりである。

(一) 被告両名の性格

(1) 被告日自振は、競輪の公正かつ円滑な実施を図ると共に、自転車その他の機械に関する事業の振興に資することを目的として、自転車競技法により設立された特殊法人であり、同法第一二条の一六に定める業務を行なうものとされる。

(2) 被告近自競は、競輪を施行する都道府県及び市町村から競輪の実施の事務委託を受け、競輪の公正かつ円滑な実施を図ることを目的として自転車競技法により設立された特殊法人であり、同法第一三条の九に定める業務を行なうものとされる。

(二) あっせん、あっせん保留及びあっせん辞退の各意義及び手続

(1) あっせんの意義

(イ) 競輪を施行するものは、都道府県及び市町村であり(自転車競技法第一条)、競輪選手が競輪に出場する仕組は、競輪施行者と競輪選手とが出走に関する契約を締結することによってなされる。ところで、昭和四七年九月三〇日当時、全国で競輪施行者の数は二五八、競輪場の数は五一、競輪選手の登録人数は三、七七七名であり、右の出走に関する契約の締結には右のような多数の競輪施行者と競輪選手とが交錯するので、その間の調整を行なうことがどうしても必要となる。この調整の役割を果すのが被告日自振であり、調整の仕事があっせんである。

(ロ) しかしながら、このことは被告日自振が個々の競輪選手に対しあっせんの義務を負うことを意味するものではない。すなわち、競輪選手の法的地位なるものは、競輪選手として被告日自振に所定の選手登録をなすことにより、競輪施行者又はその委託を受けた自転車競技会から、競輪参加の申し込みを受けた場合にこれを承諾し、競輪に参加しうる法的資格を付与されるというにとどまり、それ以上さらに進んで、自己を競輪に参加せしめるべく何人かに要求しうる権利は有しておらず、競輪への出場はあくまで競輪施行者と競輪選手との自由契約に委ねられており、また同時に、被告日自振が個々の競輪選手に対する関係であっせんの義務を負担するというようなことは右自由契約を基幹とする競輪の制度上も認められない。被告日自振が競輪施行者(又は自転車競技会)からのあっせん依頼に対し、競輪選手の出場をあっせんする権限を有することは、自転車競技法第一二条の一六第一項第三号により定められているが、これはあくまで被告日自振の行ない得る業務権限を定めたにすぎず、その他競輪選手の私的な利益のため、選手に競輪に出場する権利を認めたり、また被告日自振にあっせんの義務を負わしめるがごとき法的根拠はない。

(2) あっせんの手続

(イ) 競輪施行者たる都道府県及び市町村は、自転車競技会に対し競輪の実施を委託しているが、自転車競技会が競輪を実施する場合には、特定の選手を指名してその出場のあっせんを被告日自振に依頼する(業務規程第一一四条)。

(ロ) 被告日自振は、右の求めに応じてあっせん計画をたて、選手をあっせんする(業務規程第一一五条、第一一六条、第一一七条第一項前段)と同時に、あっせんした選手に対して出場あっせん通知書を交付する(業務規程第一一七条第一項後段)。

(ハ) 競輪選手が、あっせんを受けた競輪に参加するか否かは本人の自由であり、従って参加を希望するときは参加する旨、希望しないときは参加しない旨を記載した当該施行者宛の参加申込書を被告日自振に提出する(業務規程第一一七条第二項)。

(ニ) 被告日自振は、右申込書を一括して施行者に交付し(業務規程第一一九条第一項)、交付を受けた施行者は参加希望選手宛に参加通知書を交付する。

(ホ) 以上の手続によって、施行者と競輪選手との間に競輪出場契約が成立したことになり、ここではじめて選手は当該競輪に参加することができることになるのである。

(2) あっせん保留

業務規程第一二六条は、被告日自振が選手の出場あっせんを保留する事由と手続について定めるものであるが、その保留事由は同条第一項第一ないし第八号に定められている通りである。

本件に関連するものは三号事由であり、業務規程第八七条第一項(競輪選手登録消除事由)に該当するおそれがあって、被告日自振が調査を開始したときは、三か月以内において、その調査中及び審議中の期間、また、やむを得ない事由がある場合には二か月以内で期間の延長ができるが、その期間内は当該選手の出場あっせんを保留することができるのである。

(4) あっせん辞退

(イ) 自転車競技会は、競輪施行者と協議のうえ、管掌する各競輪を適正円滑に運営するうえで、選手にやむを得ない理由がある場合には、あらかじめ被告日自振に対し、当該競輪に出場あっせんを希望しない旨を申し出て、あっせん辞退をすることができる。被告日自振は右のあっせん辞退選手を当該自転車競技会が当該競輪施行者からその実施を委託された競輪にあっせんしない(業務規程第一二四条)。

(ロ) 元来、競輪選手の競輪に出場する行為は、選手と競輪施行者との契約にもとづくものであり、競輪施行者は基本的には、契約したくない選手とは競輪に出場する契約を結ばない自由を有している。右は制度の根幹をなす理論であるが、ただ被告日自振のあっせん業務が円滑に行なわれるようにするため、あっせん辞退を申し出る場合には「止むを得ない理由」を要するとして、業務規程第一二四条により歯止めが置かれているのである。

2、3《省略》

四  本件あっせん保留及びあっせん辞退の適法性についての被告両名の主張に対する原告両名の答弁《省略》

第三証拠《省略》

理由

第一(当事者について)

請求原因1(一)(三)及び(四)の事実並びに(二)のうち、被告近自競が自転車競技法によって設立された特殊法人である事実は、当事者間に争いがない。

第二(本件あっせん保留、あっせん辞退及び選手登録消除について)

請求原因2(一)及び(二)の事実並び(三)にのうち、原告両名が昭和四七年四月二〇日被告近自競を経て被告日自振に対し選手登録消除を申し出、同月二八日付で選手登録を消除された事実は、当事者間に争いがない。

第三(競輪の実施の手続き並びにあっせん保留及びあっせん辞退について)

一  当事者の主張三1(一)、(二)(1)(イ)及び(二)(2)の事実は当事者間に争いがない。

二1  業務規程第一二六条によれば、被告日自振は、選手に次の各号の一に該当する事由が生じたときは、それぞれの期間当該選手に対する出場あっせんを保留することができ、その事由とそれぞれの期間は、

(一) 自転車競技法違反容疑により官憲の取り調べを受けたときは、その取り調べ中の期間。

(二) 自転車競技法違反容疑並びに禁錮以上の刑の定めある刑事法違反容疑により起訴されたときは、裁判継続中の期間。

(三) 第八七条第一項の規定(選手登録消除事由)に該当するおそれがあって、被告日自振がその調査を開始したときは、三月以内において、その調査中及び審議中の期間。但し、やむを得ない事由があると認められるときは、その期間を延長することができる。この期間の延長は通じて二月をこえることができない。

(四) (削除)

(五) 身体又は精神の傷害により、適正かつ安全な競走を行なうことが困難であると認められる者については、被告日自振が指定する医師の診断により、被告日自振が公正安全な競走を行なうに支障がないと認めるまでの期間。

(六) 第九六条の規定にもとづき、被告日自振が行なう選手訓練に、正当な理由がなく参加しなかった者については、当該者が訓練を終了するまでの期間。

(七) 選手より第一三三条(長期出場不能)の申出があったとき。

(八) 前各号に掲げるもののほか、競走の公正又は安全を阻害するおそれがあると認められる者については、その理由がなくなるまでの期間

であり、これを通常あっせん保留と称している。

2(一)  《証拠省略》によれば、あっせん保留の意義は、競輪選手に選手としての適格性を欠くのではないかという疑惑が生じた場合に、その疑惑について真偽を明確にするため調査及び審議をするのであるが、その期間中に当該選手が競輪に出場することは、競輪を公正かつ安全に実施するという観点から不適当であり、特に選手に不正競走の容疑等がある場合に、これをそのまま出場させると競輪場内の雰囲気が非常に悪化し、不測の事故が発生する危険性があり(現に過去において疑惑のある選手が出場したことを端緒として数多くの紛争事件が発生した)、これを未然に防止することにあることが認められる。

(二) 以上によれば、競輪選手にとって、あっせん保留がなされればその期間中は競輪に出場することは全く不可能となり、非常な不利益を被ることとなるのであるが、右のようなあっせん保留の意義に鑑みれば、前記あっせん保留の事由とその期間はいずれも合理的なものと認めることができる。

三1  業務規程第一二四条によれば、被告日自振は、自転車競技会が競輪施行者と協議の上、やむを得ない理由によりあっせんされることを希望しない選手は、当該自転車競技会が当該競輪施行者からその実施を委託された競輪にあっせんしない。

2  《証拠省略》によれば以下の事実が認められる。

(一) 右1に判示した制度を通常あっせん辞退と称しているが、この制度の意義は、競輪を開催するに当っては、自転車競技会は予め被告日自振に対しあっせんを希望する選手の名簿を提出し、その際には、選手としての適格性に疑いのある選手とか、不正競走を行なうおそれのある選手等は当然除外しておくのであるが、前記第三、一に判示したように、あっせんにあたっては、多数の競輪施行者と多数の競輪選手とが交錯してくるような事情から、必ずしも希望した選手のみがあっせんされてくるとは限らず、希望しない選手があっせんされてくる場合もあり、このようないわば好ましくない選手が出場した場合に公正かつ安全な競輪の実施が妨げられるおそれがある。そこでこのような事態を避けるため、予め自転車競技会から被告日自振に対し、そのようなおそれのある選手についてあっせん辞退をしておく必要がある。

(二) あっせん辞退をなしうる期間については業務規程にも特に規定はなく、また実際の運用についても期限を定めてなされているものではない。従って、自転車競技会があっせん辞退の解除をなし、その旨を被告日自振に通知するまでは、あっせん辞退の効力が継続することになるのであるが、ただ自転車競技会は、毎年一〇月にあっせん辞退をしている選手についてさらにあっせん辞退を継続するか否かを検討しうえ、その結果を被告日自振に報告している。そして、あっせん辞退がなされた場合にも、被告日自振あるいは当該自転車競技会から当該選手に対し何らの通知はなされていない。

(三) 昭和四九年九月当時あっせん辞退を受けていた選手は約二八〇名、あっせん辞退件数は約三七〇件であり、また、昭和四七年から昭和四九年にかけて全国のすべての自転車競技会からあっせん辞退を受けていた選手は約一五名であった。

第四(被告両名の債務不履行責任及び不法行為責任について)

一  (債務不履行責任について)

原告両名は、被告日自振は競輪選手に対し公正に出場あっせんをする債務を有し、また自転車競技会は競輪選手と出場契約を締結すべき債務を有すると主張するので、以下この点について判断する。

1  競輪に出場する選手は「競輪審判員、選手および自転車登録規則」(昭和三二年通産省令第三九号)の定めるところにより、被告日自振に登録されたものでなければならず(自転車競技法第五条第一項)、被告日自振は選手資格検定に合格した者を選手として登録する(業務規程第七七条)。また被告日自振は、競輪の公正かつ安全な実施を確保するため必要があると認めるときは、前記「競輪審判員、選手および自転車登録規則」の定めるところにより、選手の登録を消除することができる(自転車競技法第五条第二項)。

このように、競輪選手が競輪に出場するためには被告日自振の選手登録簿に登録された者でなければならないので、競輪選手の登録とは、登録された選手に対し全国各地で開催される競輪に参加出場しうる一般的資格・身分を付与するところの行為であり、また登録の消除とは、右一般的資格・身分を剥奪するところの行為である。

2  《証拠省略》並びに前記第三、一に判示した事実によれば、以下の事実が認められる。

(一) 競輪選手は、各競輪の開催ごとに競輪施行者と競輪選手との間で締結する競輪出場契約にもとづいて競輪に出場するのであるが、右契約の内容については、昭和四七年五月一八日通商産業者と被告日自振の立会の下に、競輪施行者を代表する全国競輪施行者協議会と競輪選手を代表する日本競輪選手会との間で、「競輪選手の出場に関する約款」が定められた。右約款は、出場契約の手続き等については、その内容において、右約款が定められる以前に実際に行なわれていたものと異なっいるわけではないが、従来は、競輪が雨や事故等で中止になった場合の選手に対する補償についての取扱い等が各競輪によって異なっていたため、このような問題についての取扱いを統一するために、新らたに明文化されたものである。

(二) 右約款においては、出場あっせんに関し「甲(競輪施行者)と乙(競輪選手)は、出場契約を締結するに当り、日本自転車振興会が『競輪に関する業務の方法に関する規程』および『選手出場あっせん調整基準』その他出場あっせんに関する規則、要領に基づいて行なう出場あっせんを相互に尊重する。」旨定められている。

(三) 被告日自振は、自転車競技会と競輪選手との間の出場契約については、当事者双方ともこれを締結するか否かは全く自由であり、一方の契約締結の申込みに対し他方が承諾することを義務づけられているとは解していない。

3  自転車競技法、業務規程等において、被告日自振が競輪選手に対し公正に出場あっせんをする債務を有し、また自転車競技会が競輪選手と出場契約を締結すべき債務あることを定めた明文の規定はないし、また解釈上右債務を認むべき根拠はない。

確かに、被告日自振はその業務の一つとして競輪選手の出場あっせんを行ない(自転車競技法第一二条の一六第一項第三号)、また自転車競技会は競輪の実施に関する事務を公正かつ円滑に行なう(同法第一三条)ものと定められているのであるが、これらはいずれも被告日自振あるいは自転車競技会の行なう業務を定めたものにしかすぎず、個々の競輪選手に対して何らかの義務を負担すべきことを定めたものではない。

4  かように競輪選手は、競輪施行者又はその委託を受けた自転車競技会から競輪参加の申し込みを受けた場合に、これを承諾し競輪に参加しうる法的資格・身分を有するものではあるが、さらにそれ以上に原告両名が主張するような債務を、被告日自振や自転車競技会が負うものと解すべき根拠はない。

従って、原告両名の主張する被告両名の債務不履行責任については、その余の点について判断するまでもなく、これを認めるに由ないものというほかはない。

二  (不法行為責任について)

1  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

競輪選手が選手として得る収入としては、普通賞金、先頭賞、出走賞及び優秀選手賞等の名目によるものがあるが、それらはいずれも選手が競輪に出場してはじめて得ることができるものである。従って、競輪選手としては、競輪に出場しうるか否か、またその出場回数は極めて重要な問題であり、そこで日本競輪選手会は被告日自振との間で選手が競輪に出場しうる回数を一定数以上に保障するように交渉を重ね、その結果、昭和二九年頃からは、被告日自振と日本競輪選手会との間で、各選手が一か月およそ二本(一本は三日間)以上出場しうるようにあっせんをする旨の合意がなされ、昭和四六年、四七年頃にはほとんどの選手が一か月に二本ないし三本のあっせんを受けていた。

このように競輪選手は、出場あっせんを受けて競輪に出場することにより具体的な利益を受けることになるものである。

2  前記第三、二及び第三、三に認定した通り、あっせん保留についてはその理由と期間が、また、あっせん辞退についてはその理由が定められており、それぞれあっせん保留及びあっせん辞退のできる場合が制限されているのであるが、これは、被告両名が主張するように単に被告日自振の業務遂行の便宜のためのみではなく、前記競輪選手の利益をも考慮してこのような制限がなされているものと解すべきである(但し、あっせん辞退について期間の定めがないことについては後記第六に判示する通りである)。

従って、このような業務規程の定めに反してあっせん保留又はあっせん辞退がなされた場合には、競輪選手の前記利益を侵害するものとして不法行為が成立するものと解すべきである。

そこで、以下に本件各あっせん保留及び各あっせん辞退が業務規程の定めに反してなされ、不法行為となるものであるか否かについて検討する。

第五(被告日自振の行なったあっせん保留及び被告近自競の行なったあっせん辞退について)

一  被告日自振の原告橋田に対するあっせん保留について

1(一)(1)《証拠省略》を総合すれば、以下の事実を認めることができ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(イ)  原告橋田は、昭和四三年二月一二日開催の豊橋競輪五日目第五レースに出場し、右レースでは原告橋田は対抗と評価されており、レースの結果も二着に入賞したが、同年二月二七日中部自転車競技会より被告日自振に対し、右レースについて、「投票締切直前本人除外の大口投票(七万円)があり、不的中となったが、本人の走行は二回に亘る失格すれすれの妨害行為があり、疑惑の残る走行態度であった。」との事故報告が送られた。

(ロ)  原告橋田は、昭和四四年八月八日、九日開催の和歌山競輪において、八日は第四レースに出場し、右レースでは同月四日付のスポーツニッポン紙では四番人気と評価され、同日付のデイリースポーツ紙では無印と評価されていたが、レースの結果は九着であり、九日は第四レースに出場し対抗又は三番人気と評価されていたがレースの結果は六着であった。

右二日間のレースについて、同年八月下旬被告近自競より被告日自振に対し、「二日間凡走、罵声多し」との事故報告が送られた。

(ハ)  原告橋田は、昭和四五年二月二二日ないし二四日開催の奈良競輪において、二二日は第三レースに出場し、同日付のスポーツニッポン紙によれば対抗と評価されていたが、レースの結果は八着であり、二三日は第二レースに出場し、同日付のスポーツニッポン紙によれば対抗と評価されていたが、レースの結果は八着であった。

二日目のレース終了後、原告橋田は被告近自競の選手管理課課長浅井某より、三日目は欠場してもらいたいと言われ、三日目のレースには欠場した(右欠場の事実は当事者間に争いがない。)。

以上の三日間のレースについて、昭和四五年三月初旬被告近自競より被告日自振に対し、「初日に引続き競走に精彩なく、凡走、場内野次、バ声、批難、一部走法不審の抗議(警備隊へ)、第三日目欠場。」との事故報告が送られた。

(2) 《証拠省略》によれば、以下の事実を認めることができ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(イ)  昭和四五年六月一日、当時競輪選手であった浅野武明が自転車競技法違反の容疑で逮捕され、昭和四六年一〇月八日神戸地方裁判所尼崎支部で有罪の判決を受けたのであるが、この事件は、昭和四四年から昭和四五年にかけて、浅野自身が二十数回に亘って賄賂を収受し、他の数名の競輪選手に対しても贈賄するなどして、結局数十回に亘る八百長レースを行なったという、きわめて重大なものであった(浅野が多数の八百長レースを行なったとして自転車競技法違反容疑で逮捕されたことは、当事者間に争いがない。)

(ロ)  ところが、この事件を契機として被告日自振は、原告橋田が昭和四五年五月一八日に浅野に対し金三〇万円を貸与したこと、また前記和歌山競輪、奈良競輪に参加するに際し、浅野を自分の自動車に同乗させて行き、浅野と共に参加したこと、特に右奈良競輪においては、二日目のレース終了後、三日目のレースには欠場することとして、一旦は帰宅したにもかかわらず、三日目のレース終了時ころに、奈良競輪場まで自動車で浅野と川染勝二選手を迎えに出向き、その帰途飲食店で川染選手に席を外させて、浅野と二人だけで話をしたこと、その他原告橋田は平素から浅野と親しくしていたこと等の情報を得た。(右金三〇万円貸与の事実、原告橋田が右和歌山競輪、奈良競輪に浅野を同乗させて行き、これと共に参加した事実、右奈良競輪三日目に、原告橋田がわざわざ浅野を迎えに出向いた事実は、いずれも当事者間に争いがない。)

(二) 《証拠省略》によれば、被告日自振は、前記豊橋競輪、和歌山競輪、奈良競輪の事故報告を得てその内容をこまかく検討し、さらに中部、近畿各自転車競技会から、走行図、売上表等の資料、あるいは売上の状況、走行表、着順その他が記載されている競輪報告書を取り寄せて、これを調査検討し、また浅野との関係についても調査したこと、その上で被告日自振は、昭和四五年六月三〇日と同年七月二〇日の二回に亘り、原告橋田を被告日自振に招致して事情聴取をしたが(右二回に亘り事情聴取したことは当事者間に争いがない)、原告橋田は、前記各競輪の事故報告の内容となっている容疑事実についてはいずれも否認し、また浅野との関係についても、浅野に金三〇万円を貸した事実は認めたが、同人とは特に親しいわけではないと弁解するのみであったこと。などの各事実を認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

2 そこで、次に被告日自振が原告橋田をあっせん保留にする必要があったか否かについて検討する。

(一)(1) (豊橋競輪第五日目第五レースについて)

(イ)  《証拠省略》及び前記第五、一1(二)に認定した事実によれば、被告日自振は、右レースについて、投票締切直前に原告橋田除外の大口(七万円)の異常投票があったことと、原告橋田が二回に亘り失格すれすれの妨害行為をしたことに疑惑を持ったことが認められる。

原告橋田は、前記第五、一1(二)の被告日自振における事情聴取の際には、異常投票と走行態度との関係について、原告橋田除外の投票ではなくて、原告橋田の二着に対して七万円の投票があり、そのレースについて原告橋田が失格すれすれの行為を二回行なったとの容疑で事情聴取された旨供述するが、《証拠省略》に対比してにわかに信用できず、他に先きの認定を左右するに足りる証拠はない。

(ロ)  前記第五、一1(二)に認定したところによれば、原告橋田は被告日自振の事情聴取においては、右疑惑を否認するだけであった。

(ハ)  以上によれば、被告日自振としては、異常投票と原告橋田の走行態度との関連について調査し審議する必要があったものと認められる。

(2) (和歌山競輪について)

(イ)  《証拠省略》並びに前記第五、一1(一)(1)(ロ)に認定した事実によれば、以下の事実を認めることができ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

右競輪における原告橋田の走行態度については、被告近自競より「二日間凡走、罵声多し」との事故報告が送られてきたのであるが、右の「凡走」とは競輪界における特殊用語であって、これはただ平凡に走ったということではなく、競輪においては、選手はその有する脚力とか脚質を十分に発揮して競走しなければならないのであるが、そのような努力をせずに、ただ漫然と周回したにすぎず、敢闘精神が欠如しているという意味合いにおいて、若干不正的な要素をもった走法を意味するものである。

本件の場合、特に八月八日(一日目)の第四レースにおいては、原告橋田は主力選手にランクされており、また同原告の走法は先行型といわれているものであるが、そのような脚質とか脚力を生かさないで終始後方で競走を行ない、結局はいわゆる「トップ取り」にも負け、最下位の九着になった。この「トップ取り」というのは、各レースにおいて、スタート後先頭を走ることをあらかじめ決められた選手であって、先頭を走る選手は、風圧その他の影響から、最終的には最下位に落ちるという場合がほとんどであり、従って、他の選手がそのようなトップ取りに負けるということはきわめてまれなことであるが、このレースにおいては、原告橋田はトップ取りにも負けるという結果であった。

(ロ)  《証拠省略》によれば、原告橋田は続く八月一〇日(三日目)の第一レースに出場し、レース前の予想では本命あるいは三番人気と評価されていたが、レースの結果は一着に入賞した事実が認められる。

(ハ)  原告橋田は、和歌山競輪の三日間のレースについて次のように弁明する。すなわち、和歌山競輪三日間のレースはいわゆるトーナメント方式であり、原告橋田の出場するB級のレースのうち、一日目のレースは予選レースといわれ、これには一般予選競走が二レースと特別選抜競走が一レース行なわれ、このうち特別選抜競走とは実力の優れた選手のみを選抜して行なわれるものであり、従ってまたこのレースで良い成績を得ることはなかなか困難である。二日目のレースは、一日目に行なわれた一般予選競走二レースに出場した選手のうちそれぞれ上位四着までに入賞したもの計八名と、五着に入賞したもの一名と、一日目の特別選抜競走に出場した選手を集めて、準優勝競走を二レースと、他の選手により一般競走一レースを作る。三日目は、二日目の準優勝競走二レースに出場した選手のうちそれぞれ上位四着までに入賞したもの計八名と、五着に入賞したもの一名の計九名を集めて、優勝競走を一レースと、その他の選手により一般競走二レースを作る。このように三日目の一般競走には、一日目、二日目に余りふるわなかった選手が集められてレースが作られることになる。従って、これらの選手と競走した場合には、一日目、二日目に余りふるわなくても三日目には良い成績となることがあっても特に不思議ではないのであり、原告橋田が一日目に特別選抜競走で九着になり、二日目に準優勝競走で六着になり、三日目に一般競走で一着になったからといって、何の不思議もない。

(ニ)  そこで、この点について判断するに、和歌山競輪の三日間のレースがトーナメント方式である以上、各レースの結果については、原告橋田の供述するようなこもありうるわけではあるが、このようなことは被告日自振や被告近自競においても十分承知しているところであり、右レースについて被告日自振が何よりも問題としたのは、前記第五、一1(一)(1)(ロ)に判示したように、一日目と二日目において「凡走」したという事実についてであり、ただ単にレースの結果のみを問題としているのではないのである。従って、原告橋田の右供述は被告日自振の抱いた疑惑に対し十分な弁明となるものではない。

(ホ)  以上によれば、被告日自振としては、原告橋田の走行態度について、不正と結びつくような背後関係の有無について調査し審議する必要があったものと認められる。

(3) (奈良競輪について)

(イ)  《証拠省略》によれば、原告橋田は奈良競輪において一日目、二日目とも凡走し、特に二日目の第二レースにおいては、場内で一般のファンから非常に多くの野次や罵声が飛ばされ、また一部のファンが苦情処理室にまで来て抗議をし、結局、続く三日目は、前認定のとおり浅井課長の勧めによりレースに出場しなかったことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(ロ)  ところで、《証拠省略》によれば、奈良競輪二日目第二レースは八車建てのレースであって、一枠から四枠までが単枠で、五枠及び六枠が複枠であり、また、同レースは連勝複式であったから、投票した選手が一着か二着のいずれかに入賞すればよいというものであったところ、このレースで原告橋田は六枠であり、レースの結果は、同じ六枠で予想では無印の玉野主計選手が一着に入賞し、五枠の川染勝二選手が二着に入賞した事実が認められる。

(ハ)  そこで原告橋田は、右レースについて、原告橋田は八着とはなったものの、同枠の玉野選手が一着に入賞し、このようなことは競輪界では「ピンチヒッターが入った」といってときたま起ることであり、また同レースは連勝複式であったから、原告橋田を対抗とみて投票した者にとっても、結果として車券的には影響はなく、従って、一般のファンがレースについて不満を持つはずもなく、また、原告橋田としても同レースにおいては全力で競走した旨供述する。

しかしながら、同レースにおいて六―六に投票した場合には車券的に影響の出ることは明らかであり、また、前記(イ)に判示したレース中における多くの野次や罵声、苦情処理室への抗議などからして、原告橋田の右供述は弁解として十分なものとは認められない。

(ニ)  以上によれば、被告日自振としては、原告橋田の走行態度について、不正と結びつくような背後関係の有無について調査し審議する必要があったものと認められる。

(4) (浅野武明選手との関係について)

(イ)  《証拠省略》、前記(3)(イ)に認定した事実並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

原告橋田は、昭和二五年に競輪選手となり、奈良県所属の登録をしたが、その後兵庫県伊丹市に住居を移したためそれ以後甲子園競輪場をいわゆるホームパンクとして、日常の練習等を行なってきたものであり、また、昭和四六年六月一〇日兵庫県所属に登録変えとなった。他方、浅野選手も昭和二五年登録の選手であり、またホームパンクを甲子園競輪場としていたため、原告橋田と普通程度の交際はあったが、特に親しいというわけではなかった。

競輪選手は、競輪に参加するため競輪場に出かける際に、自分の自動車で行く時には他の選手を同乗させることがよくあり、原告橋田も何度か他の選手を同乗させて行ったことがあった。原告橋田が、前認定の通り奈良競輪に参加するに際し浅野、川染両選手を同乗させて行ったり、同競輪の三日目のレース終了時頃に右両選手をわざわざ迎えに行ったのも、そのような関係からであり、その帰途焼肉屋で三人で飲食した。

(ロ)  以上に認定した事実及び前記第五、一1(2)(ロ)に判示した事実について、原告橋田は、本人尋問において、おおむねこれに副った供述をしているが、特に、浅野が自転車競技法違反の罪を犯しているなどとは当時全く知る由もなく、従って、原告橋田としては浅野とは互いに競輪選手として全く普通の交際をしていたものにすぎず、奈良競輪に参加するに際し浅野、川染両選手を同乗させたり、その三日目にわざわざ両選手を迎えに出向いたりしたのは、両選手から特に依頼されたためであり、その帰途、三人で焼肉屋で飲食した際にも、途中で川染選手を退席させて浅野と二人だけで密談をしたというようなことはなく、また、浅野に金三〇万円を貸したことについても、これは浅野の妻も承知していたので、原告橋田としては安心して貸したものであり、後日浅野が逮捕されたことを知って、直ちに被告近自競の西支部に対し、浅野に退職金を支払うときは、原告橋田に連絡してほしい旨を申し出、結局右貸金は、浅野の妻が被告近自競西支部から浅野の退職金を受取った際に返還してもらったものであって、何らやましいものではない旨供述する。

(ハ)  右の供述は、それ自体としては特に不自然なところはないが、被告日自振に対し、前記事情聴取の機会をも含めて、何らかの方法で右のような説明をしたと認めるに足りる証拠はなく、また仮に右のような説明をしたとしても、当時被告日自振の得ていた情報とは幾分異なる部分もあり、さらに前記のように浅野が逮捕された時点でもあり、原告橋田の右説明が真実であるか否か調査する必要があったものといわなければならない。

(二) 以上によれば、原告橋田の前記各疑惑について、豊橋競輪については業務規定第八七条第一項第六号ないし第九号等に、和歌山競輪及び奈良競輪については同条同項第一二号等に、浅野との関係については同条同項第一〇号、第一五号の各規定に該当するおそれがあり、被告日自振としてはその調査及び審議をする必要性があったものと認められ、従って原告橋田をあっせん保留にしたことに何ら違法はないものといわねばならない。

(三)(1) 《証拠省略》によれば、被告日自振は、昭和四五年八月六日付で原告橋田をあっせん保留にした後、原告橋田と共にレースに出場した選手五名位と原告橋田を被告日自振に招致して事情聴取を行なうなどして調査をしたが、真偽不明のまま業務規程第一二六条第一項第三号本文所定の三か月が経過したこと、そこで、さらに昭和四五年一一月五日付で、同号但し書により昭和四五年一一月二二日まであっせん保留の期間を延長し、主に奈良競輪及び浅野との関係についての疑惑を調査し、特に浅野との関係については調査員をして調査に当らせたが、右期間満了時までの調査では各疑惑を認めるに足りるだけの証拠は得られず、さらに調査を継続しても新しい証拠が得られたり、事実関係が判明するとも予測されなかったため、結局前認定の通り、昭和四五年一一月二三日付をもって疑惑が解消されないままあっせん保留を解除した事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(2) 以上に判示したところによれば、昭和四五年一一月五日付であっせん保留期間を延長したことについてはやむを得ない事由があると認めるのが相当であり、何らの違法は認められない。

(四) 結局、被告日自振が原告橋田に対しあっせん保留をし、さらにその期間を延長したことについて違法はなく、従って、これらの点に関し被告日自振は何ら不法行為責任を負うものではない。

二  被告近自競の原告橋田に対するあっせん辞退について、

1  《証拠省略》並びに前記第五、一に判示した事実によれば、以下の事実が認められる。

(一) 被告日自振が原告橋田に対しあっせん保留にした後、被告近自競は原告橋田が被告近自競管内の登録選手であったこともあって、被告日自振の調査、審議の経過については注目していたが、右あっせん保留は前記の通り昭和四五年一一月二三日付をもって解除された。

(二) 右のあっせん保留が解除された後、被告近自競としても、独自に原告橋田について調査を行ない、次のような結果を得た。

(1) 被告近自競としては、前記豊橋、和歌山、奈良の各競輪における原告橋田の走法及び背後関係並びに浅野との関係について前記第五、一2記載の疑惑を持ち、和歌山及び奈良の両競輪については手持ちの資料を、豊橋競輪については被告近自競に送付されて来た事故速報を、浅野との関係については被告日自振に所属する調査員の調査結果をそれぞれ検討した。その結果、被告近自競としては、右各疑惑についてその存在を認めるに足りる確証を得るには至らず、また被告日自振もその確証を得ることができなかったことは知っていたけれども、かといって、逆に疑惑を否定し去ることもできなかった。

(2) 被告近自競は、従前から、原告橋田が管内の競輪に出場すると、競輪場内における暴力団関係者と思われるような人物の動きが非常に活発になるなどして、場内の雰囲気が非常に険悪になるという情報を得ていた。

(3) 被告近自競は、原告橋田の競輪に関する事故歴を調査した結果、昭和四一年八月以降合計一四件(本件で問題となった三件を含む。)の事故報告があり、特にそのうち「凡走」を内容とするものが八件(本件で問題となった二件を含む。)あることが判明した。

(三) 被告近自競が、前記の通り、昭和四五年一二月二四日付で原告橋田について被告日自振に対しあっせん辞退をしたのは、右(二)に判示した調査結果から、原告橋田を被告近自競管内の競輪場に出場させれば、競輪の公正と安全を確保することはできなくなると判断したからに外ならない。

2  右1に判示した事実と前記第五、一2に判示した事実を総合すれば、被告近自競が原告橋田についてあっせん辞退をしたことは、業務規定第一二四条に定める「やむを得ない理由」があったものと認められ、従って被告近自競があっせん辞退をしたことに何ら違法はない。

3  原告両名は、被告近自競が原告橋田についてやむを得ない理由がないにもかかわらず違法にあっせん辞退をしたのであるから、被告日自振としても、これに対して適正に指導し、あっせん辞退を解除するよう指導すべき義務があるのに、これを怠った旨主張するが、以上に判示した通り被告近自競が原告橋田についてあっせん辞退をしたことは何ら違法ではないのであるから、原告両名の右主張はその前提を欠き失当である。

三  (被告日自振の原告冨野に対するあっせん保留について)

1(一)(1)《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

(イ)  原告冨野は、昭和四四年八月一五日ないし一七日開催の高松市営第五回高松競輪に参加し、一日目は第七レースに出場し、同レースは八車建であったが、レースの結果は六着であり、二日目は第七レースに出場し、同レースは八車建であったが、レースの結果は五着であり、三日目は第三レースに出場し、同レースは八車建であったが、レースの結果は七着であった。

(ロ)  右レース終了後、四国自転車競技会香川支部から被告日自振に対し、昭和四四年八月二八日付の事故報告書が送付された。

右報告書には、「事故の内容」として、次の通り記載されていた。

「第一日七レース、六―一◎―△二九万の大口勝負があり、四国同士でマーク、先行で順当な買い方と考えられたが、ファンの単独判断によるものとしては大き過ぎる感があり、一応レースの内容についても注目をしていた。スタート後八、一、七、二、三、五、四、六の正当な順位であり、六―一の可能性が強い状態であったが、五番冨野の走法が四番○印伊木の走法を邪まする形で表われてきたので、大口勝負のファンと冨野のつながりについて疑念をもつ。○印伊木は最終回二C~BSで本来の脚力を発揮し、二着に入り、六―四となる。

第二日七レース、◎印林幸夫(高知)をとばし、△を頭にしての異常投票が見られた。このレース、冨野×印は周回中終始位置とりのため出入りし、×印マーク選手として、六、五△、一◎、三〇、二×、七、八、四の体列で順当と考えるが、これを嫌い、一の前方に出ること二回、終始体列決まらず、冨野一人がかく乱しているが如き競走内容で、一◎の失脚を助けているとも思われたが、一は最終回HSにて先行位をとって逃げ切り、成功して一◎―三〇と入る。

第三日三レース、◎藤田清(香川)△冨野隆司(兵庫)をほおって、○×無をからませ、計三一万のばら買で、四◎先行をマークせず、◎の先行に位置づけするのが順当であるが、このレースも冨野一人が前に出て、◎の前方に位置するようなうなづけない体列、形態であった。◎―○、四―二と入り脚力の順位通りの結果になった。三日間を通じて入着を目標としていない走り方という感じを受ける。

異常投票は、当該レースの前レースの車券発売時に、前売車券場で投票したもので、少額の投票数もよく判ったものです(三日間ともに)。

異常投票内訳(単位千円)

第一日  六―一  二九〇、六―二 三五、六―三 三、五―二 二、五―六 三、一―四 四五、  計三七八

第二日  五―三 四八、五―六 四九、五―四 三〇、六―一 二〇、六―五 一五、三―五 二〇、三―六 一〇、三―一 二〇、四―六 一、四―五 一、三―四 三、六―三 八、六―四 五、  計二三〇

第三日  二―五 一二五、二―三 四四、一―二 六〇、一―三 二一、一―五 二一、三―五 二二、三―六 五、五―五 一一、五―六 一一、  計三一四

そして右事故報告書には、原告冨野が三日間に出場した各レースについての競輪成績表、連勝単式勝者投票成績表、勝者投票成績表、周回図、高松競輪出走表が添付されていた。

(2) 《証拠省略》によれば、以下の事実を認めることができる。

(イ)  原告冨野は、昭和四四年一一月一六日ないし一八日開催の第三回多治見市外四市共営岐阜競輪に参加し、一日目は第三レースに出場し、同レースは九車建であったが、レースの結果は八着であり、二日目は第三レースに出場し、同レースは九車建であったがレースの結果は一着であり、三日目は第八レースに出場し同レースは九車建であったが、レースの結果は八着であった。

(ロ)  右レース終了後、中部自転車競技会から被告日自振に対し、昭和四四年一二月二日付の事故競走報告書が送付された。右報告書には「容疑内容」として「不正競走および背後関係不明朗」と記載があり、また「容疑事実を認定するに至った経緯ならびに情状」として次の通りの記載があった。

「(一)第一日第三レースA級予選競走一六〇〇メートル、冨野選手は、一番車として出走し、五番または六番人気と目されていた。走行状況は、別紙「走行表」および「競走評」の通りで、レースの前半は主に三番車松田選手と、後半には二番車中原選手と併走し、八着となった。払戻金は四―五の組七二〇円であった。車券面については異常は認められなかったが、競走における他選手に対する執ような競り合いは異常と思えるものがあるので、所謂何々殺しではないかと思われる。なお、当日第一レースより関西山口系松本一美以下数名が来場しているという情報があったので、自営警備隊に調査させたところ、別紙「自営警備隊の業務日報」にあるとおり、川合派のノミ屋より一―五、四―五、五―六の組を購入しようとし、断られた事が判明した。

(二)第二日第三レースA級一般競走一六〇〇メートル、冨野選手は七番選手として出走し、三番人気と目されていた。走行状況は別紙「走行表」の通り、一番車篠田光昭選手(先行型)をマークし、終始三番森井親夫選手を押えて走行した。競走の結果は、一着七番冨野選手、二着三番森井選手、三着一番篠田選手となった。払戻金は三―五の組二、七二〇円であった。車券関係を調査したところ、別紙「投票数並に払戻金計算書」のとおり、一番人気の一―四の組が八、五四三票、二番人気の一―五の組が九、九三〇票の異常投票が認められた。一方松本組の動向を調査したところ、ノミ屋岐阜瀬古安組に対し、一―五の組五〇〇枚、四―五の組一三〇枚の申込みをしたことが判明した(別紙自営警備隊の「松本一美組長の動向等調査結果」および業務日報参照)。レースの状況および投票状況より、冨野選手は三番人気で人気の低いのを利用し、一着または二着となり、その結果松本組がノミ屋より多額の払戻金をさ取せんとしたのではないかと思われる。しかし、レース結果は一番人気の一番車が三着となったため、いわゆる八百長崩れとなったと思われる。

(三)第三日第八レースA級選抜競走二〇〇〇メートル、冨野選手は八番車として出走し、無印と目されていた。走行状況は別紙「走行表」および「競走評」の如く、終始二番人気の三番車加藤修一選手と併走し、八着となった(加藤選手は四着)。払戻金は四―一の組の五九〇円であった。投票面については異常は認められなかったが、競走における二番人気の選手に対する執ような競り合いは異常と思えるものがあるので、いわゆる対抗殺しではないかと思われる。なお、松本組の動向を調査したところ、別紙「自営警備隊の情報報告」にあるとおり、大垣川合派のノミ屋より、一―四の組一〇〇枚、四―一の組五〇〇枚、四―二の組三〇〇枚、四―五の組二〇〇枚を購入している。

以上諸状況を勘案してみるに、冨野選手は松本組とのつながりがあるやに見受けられ、不正競走の疑いがもたれる。」。

そして、右報告書には、「競走評」、「選手の不正競走容疑に関するファンからの電話内容」、「新聞記事」、「走行表」、「着順成績表」、「連勝複式投票数並に払戻金計算書」、「連勝単式投票数並に払戻金計算書」、「予想紙」、「業務日報」、「松本一美組長の動向等調査結果」等の書類が添付されていた。

(二) 《証拠省略》によれば、以下の事実を認めることができる。

(1) 被告日自振は、高松競輪及び岐阜競輪の事故報告の内容及び添付書類を調査検討した。

(2) さらに原告冨野について、その前歴を調査したところ、次のような事実が判明した。

(イ)  原告冨野は、昭和三三年七月奈良県営第四回奈良競輪に参加したが、二日目、三日目の原告冨野が出場したレースに限り、売上枚数に極端な異常投票を認め、選手間の風評によれば、作戦レース、談合レースに誘いをかける行為があるとの事にて、背後関係に疑わしい点が考えられるとの理由で、昭和三三年七月一九日付で奈良県自転車振興会からあっせん辞退(当時は「配分忌避」という言葉を用いた。)の申請がなされ、右あっせん辞退は昭和三七年九月三〇日付で解除された。(右あっせん辞退及びその解除の事実は当事者間に争いがない)。

(ロ)  原告冨野は、昭和三七年一〇月岸和田競輪に参加して、三日目(同月一七日)第六レースに出場し、○又は△の予想がたてられていたが、拙走八着に惨敗した。このレースで、前売投票について、各枠に亘って四〇票程度のものがあったうち、本選手関係のものは除外されていた。発売窓口締切直前、はじめて本選手を紐とした一四〇票が投票され、併せて本選手を除外した的中×―◎三〇〇票も投票された。投票面から見ると背後に不明朗なものを感じられる(ので調査中である)との理由で、被告近自競大阪府支部より昭和三七年一〇月二九日付であっせん辞退の申請がなされ、右あっせん辞退は昭和三八年一〇月一七日付で解除された。(右あっせん辞退及びその解除の事実は当事者間に争いがない)。

(ハ)  原告冨野は、昭和三九年一月一九日、昭和三八年度第一〇回観音寺競輪第一節二日目の開催に際し、他の三名の競輪選手と共に、風が強いからと強硬に開催に反対し、競輪の開催に非協力であったという理由で、四国自転車競技会から昭和三九年二月一一日付であっせん辞退の申請がなされたが、右あっせん辞退は昭和四〇年三月一三日付で解除された。(右あっせん辞退及びその解除の事実は当事者間に争いがない)。

(ニ)  原告冨野は、昭和四〇年度富山市営第六回富山競輪に参加中の同年八月一日、宿舎で競輪選手川染仁一に対し手拳で右頬を二回殴打し、また、仲裁に入った競輪選手中野好治に対しても手拳で右頬を殴打するという暴行をしたという理由で、中部自転車競技会富山県支部から昭和四〇年八月二〇日付であっせん辞退の申請がなされた。(右あっせん辞退の事実は当事者間に争いがない)。

(ホ)  原告冨野は、昭和四一年七月二五日開催の向日町競輪第七レースに出場したが、被告近自競京都支部より、同年八月一日付で「(一)本選手(原告冨野)はマーク選手ながら三周目一コーナー付近より先行した。先行型の岸田選手は捲くって先行態勢がかわり、本選手は三番手となり周回し、三周目先頭に出たが、又々岸田選手に捲くられて内側でねばり、好位置ながらそのまま三着に流れ込んだ。(二)場内(特別席)の風評では『今日は冨野は用はない』声が高く、特別席での売上は不自然なものが見受けられた。」等との情報が送付されてきた。

(3) 被告日自振は、昭和四五年七月九日原告冨野を被告日自振に招致して、前記高松競輪と岐阜競輪の各報告書にもとづき、同原告に対し事情聴取して弁明の機会を与えた。(右同日事情聴取がなされたことは当事者間に争いがない)。しかしながら、原告冨野は前記各疑惑について否認するのみで、記憶がはっきりしないと言って十分な弁明はできなかった。

(4) そこで、被告日自振としても納得できず、さらに調査をする必要と原告冨野をこのまま競輪に出場させることは非常に危険であると判断し、前記のとおり昭和四五年七月二〇日原告冨野に対し出場あっせんを保留したものである。

2 そこで次に、被告日自振が原告冨野をあっせん保留にする必要があったか否かについて検討する。

(一)(1) (高松競輪一日目第七レースについて)

(イ)  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

右レースにおいては、七番(六枠)若松利典選手が本命、四番伊木明義選手が対抗、二番後藤哲男選手が三番人気、一番渡辺章選手が四番人気という評価であった。従って右の評価からすれば、六―四の投票数が最も多くなると予想されるのであるが、他方、同レースに出場した選手のうち、七番(六枠)若松選手は高知県出身であり、一番渡辺選手は香川県出身であったから、ここに出身地をも考慮して(このような選手の出身地によるつながりのことを競輪界においては「ライン」と呼んでいる。)、六―一の投票も多くなるものと予想された。このレースの連勝単式勝者投票成績の状況は、六―一が二万五、三五八票で最も多く、以下順に六―二が一万七、五七〇票、六―四が一万五、九〇一票、一―六が一万四一九票であって、前記四国ラインが強く顕われた結果となった。

(ロ)  ところで、前記三1(一)(1)(ロ)に判示した通り、右レースの事故報告によれば、特定の一ファンが、六―一に二、九〇〇票、六―二に三五〇票、六―三に三〇票、五―二に二〇票、五―六に三〇票、一―四に四五〇票、合計三、七八〇票の投票をしたということであり、これは一ファンの投票数としては多きにすぎるのみならず、六―一に最も多く投票したことについては状票全体の傾向とも一致しているものではあるが、このように多数の投票をしたにもかかわらず本命―対抗の六―四には全く投票しなかったことに異常性が認められる。

(ハ)  そこで、次に右レースの走行状態について検討する。

《証拠省略》によれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

原告冨野は、スタート直後から四番伊木選手の直後に位置をとり、おおむねこのような位置で二周し、三周目になると四番伊木選手の直前に出たり、併走したり、また直後に下ったりする走法をくり返し、このような状態が第六周の二コーナーまで継続し、その後六周のバック・ストレッチ辺りから四番伊木選手は上位に進出したが、原告冨野は終始中位あるいは下位を走行した。

四国自転車競技会香川支部においては、原告冨野は四番伊木選手の走行を妨害するような不審な走行をしたと判断した。

(ニ)  以上によれば、被告日自振としては、異常投票と原告冨野の走行態度との関連について、調査し審議する必要があったものと認められる。

(2) (高松競輪二日目第七レースについて)

(イ)  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

右レースにおいては、一番林章夫選手が本命、三番福本一行選手が対抗、五番有安勇選手が三番人気、二番原告冨野が四番人気という評価であった。従って、この評価からすれば、一―三が最も多く、以下三―一、一―五、一―二の順で投票がなされるものと予想された。ところで、このレースの連勝単式勝者投票成績の状況は、一―三が最も多くて四万七、四七一票、以下順に三―一が一万三、三八五票、一―五が八、五八二票、一―二が七、七八六票であった。

(ロ)  ところで、前記三1(一)(1)(ロ)に判示した通り、右レースの事故報告によれば、特定の一ファンが、五―三に四八〇票、五―六に四九〇票、五―四に三〇〇票、六―一に二〇〇票、六―五に一五〇票、三―五に二〇〇票、三―六に一〇〇票、三―一に二〇〇票、四―六に一〇票、四―五に一〇票、三―四に三〇票、六―三に八〇票、六―四に五〇票、合計二、三〇〇票の投票をしたということであり、これは一ファンの投票数としては多きに過ぎるのみならず、四番人気の二番原告冨野を全く除外したことに異常性が認められる。

(ハ)  そこで、次に右レースの走行状態について検討する。

《証拠省略》によれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

原告冨野は、スタート直後七位に位置し、第一周三コーナーあたりから五位に上昇し、第二周一コーナーあたりから四位に上昇し、第三周一コーナーあたりでは三位となり、二コーナーあたりでは四位となり、三コーナーあたりでは五位となり、四コーナーあたりでは三位となり、第四周一コーナーあたりでは四位となり、一センターあたりでは六位となり、二コーナーあたりでは五位となり、第五周一コーナーから二コーナーあたりにかけて右の状態が続き、バックストレッチからホームストレッチにかけて三位となり、このあたりから第六周一コーナーにかけて、本命の一番林選手と対抗の三番福本選手が一気に先頭に出ようとした際、原告冨野は一応は右両選手のあとに続く態勢はとったものの、すぐにあとを追うことを止め、一センターあたりではもとの態勢にもどった。

(ニ)  《証拠省略》によれば、原告冨野の走法の型はいわゆるマーク型で、これは目標とする先行の強い選手の後を走り、最後にこれを追い越して一位をねらうという型であることが認められる。

従って、前記の通り、第六周の一コーナーから一センターあたりにかけて、林、福本両選手が先頭に出ようとした際、原告冨野とすれば当然に右両選手の後を追い、さらには一着を狙って然るべきところ、一旦は右両選手の後を追う態勢をとりつつも、安易にこれをやめて元の位置に戻っている点、また、レースの全般を通じて動きが激しかった点に、果して原告冨野が入着を目標としてレースを行なったのか否か、疑問の残るような走法であった。

(ホ)  以上によれば、被告日自振としては、異常投票と原告冨野の走行態度との関連について調査し審議する必要があったものと認められる。

(3) (高松競輪三日目第三レースについて)

(イ)  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

右レースにおいては、四番藤田清選手が本命、二番鈴木田章二選手が対抗、八番原告冨野が三番人気、三番内田勤選手が四番人気、一番久本芳孝選手が五番人気という評価であり、また、出場選手八名のうち一番久本選手と四番藤田選手の両名は香川県出身であった。そして、右の予想及びいわゆるラインを考慮して、同レースの連勝複式勝者投票成績の結果は、四―六が最も多くて一万一、四九九票、以下一―四が九、六九四票、二―四が九、六六八票、二―五が七、七五八票、二―六が五、九五七票の順であった。

(ロ)  ところで、前記三1(一)(1)(ロ)に判示した通り、右レースの事故報告によれば、特定の一ファンが、二―五に一、二五〇票、二―三に四四〇票、一―二に六〇〇票、一―三に二一〇票、一―五に二一〇票、三―五に二二〇票、三―六に五〇票、五―五に一一〇票、五―六に一一〇票、合計三、一四〇票の投票をしたということであり、これは一ファンの投票数としては多きに過ぎるのみならず、本命の四番藤田選手除外の傾向がきわめて強く出ている点に、異常性が認められた。

(ハ)  そこで、次に右レースの走行状態について検討するに、《証拠省略》に記載された事故の内容は、「四番◎先行をマークせず、◎の先行に位置づけするのが順当であるが、このレースも冨野一人が前に出て◎の前方に位置するようなうなづけない体列・形態であった。……三日間を通じて入着を目標としていない走り方という感じを受ける。」というものであり、また、証人浅見忠朗の供述するところも、原告冨野はマーク選手であるから、当然実力的に上位にある本命の四番藤田選手をマークすべきであると考えられるのであるが、常に藤田選手の前で競走している点、また、レースの最終回(第六周)において、おさえ先行の態勢に出た藤田選手の後を五番吉武選手が走っているのであるから、原告冨野としては藤田選手の後を吉武選手とせるべきであったが、これをしなかった点に、不審が残るというものである。

ところで、《証拠省略》によれば、原告冨野は、スタート直後から第一周二コーナーあたりまでは藤田選手のすぐ後位を走っているのであり、第四周においては、二コーナーあたりでは六位にいた藤田選手が次第に上昇して、三コーナーあたりからホームストレッチあたりまでは先頭を走り、その間原告冨野は七位を走っているのであって、必ずしも常に藤田選手の前を走ったわけではなく、また、最終回(第六周)の走行についても、一コーナーあたりから二コーナーあたりにかけては藤田選手の直後を五番吉武選手が走り、しかも、同選手は一センターあたりでは六番林選手と併走するような形であり、次いで、二コーナーあたりでは七番八木選手と併走するような形となったことが認められ、右認定の事実からすれば、原告冨野が、右のような状態でさらに五番吉武選手と藤田選手の後をせるということは、かなり困難なことではなかったかと推測される。

以上の通り、原告冨野は右レースにおいて、常に藤田選手の前を走行したわけではなく、最終回において藤田選手の後を五番吉武選手とせらなかったことについても特に不審な点は認められないし、他に右レース全体をみても、前記異常投票と結びつくような事実とか不審な走行をしたと認めるに足りる証拠はない。

(4) (岐阜競輪一日目第三レースについて)

(イ)  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

右レースは九車建で、四番池浦泉選手が本命、九番(六枠)渡辺晴男選手が対抗、二番中原立太選手が三番人気、七番(五枠)坂田正選手が四番人気、一番原告冨野が五番人気という評価であった。

ところで、岐阜競輪場の警備隊員伊地知信義は、右レースの行なわれた当日(昭和四四年一一月一六日)午前一一時過ぎに暴力団山口組系松本組々長松本一美が他二名と共に入場し、右第三レースについては、大垣市内の暴力団川合派の組員であるいわゆるノミ屋から、一―五、四―五、五―六の組の購入申し込みをしたが、断わられたとの情報を得、その旨業務日報に記載して報告した。

(ロ)  そこで、次に右レースの走行状態について検討する。

《証拠省略》によれば、原告冨野は、スタート後第一周バックストレッチあたりから第二周ホームストレッチあたりにかけて、三番松井孝選手と併走する形でせり、さらに第三周一センターあたりから第四周一センターあたりにかけて、二番中原立太選手と併走する形でせったが、結局レースの結果は、一着が四番池浦選手、以下七番坂田選手、二番中原選手、九番渡辺選手、八番後藤田選手、三番松井選手、五番釜田選手、一番原告冨野、六番大橋選手の順であった事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(ハ)  《証拠省略》によれば、ノミ屋が私設車券の購入申し込みを断わるのは、それが当たる可能性が非常に強いという情報が関係者の間で流れているためであること、また、右レースにおいて原告冨野が二番中原選手や三番松井選手と併走してせれば、右両選手は非常に不利になり、前記(イ)に認定した評価をも考慮すれば、一―五、四―五、五―六が入着する可能性はきわめて強くなるものであったことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(ニ)  《証拠省略》によれば、右レースの審判長田口勝義は、原告冨野の走行態度について、後記(6)(ホ)に記載の通り批評したことが認められる。

(ホ)  以上によれば、被告日自振としては、原告冨野と松本組の関係者らとの間に不明朗な背後関係がなかったか否かについて調査し審議する必要があったものと認められる。

(5) (岐阜競輪二日目第三レースについて)

(イ)  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

右レースは九車建で、一番篠田光昭選手が本命、四番佐藤慎治選手が対抗、七番(五枠)原告冨野が三番人気、三番森井親夫選手が四番人気という評価であった。

従って右の評価によれば、投票数は一―四が最も多く、以下一―五、一―三の順になるものと予想されたのであるが、実際の連勝複式勝者投票数は、一―五が九、九三〇票、一―四が八、五四三票、一―三が七、〇六八票であった。また、当日(昭和四四年一一月一七日)同競輪場の警備隊員は、前記松本一美組長が第一レース開始前より四、五名の者と共に来場し、第三レースについては、瀬古安組関係のノミ屋に対し、一―五の私設車券五〇〇枚、四―五の私設車券一三〇枚の購入を申し込み、このほか、正規の第二投票場において、子分の一人に一―五の車券二〇〇枚を購入させた、との情報を得た。

(ロ)  右に認定した投票全体の傾向は、本命―三番人気に対する投票数が本命―対抗に対する投票数よりも多いという点に異常性が認められ、また、右松本一美組長が瀬古安組に申し込んだ車券の内容についても、本命―対抗を除外している点に異常性が認められる。

(ハ)  そこで次に右レースの走行状態について検討する。

《証拠省略》によれば、原告冨野は、スタート後第一周から比較的前の方を積極的に走り、第三周バックストレッチあたりでは二位となり、結局は一着となったことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

以上に認定した事実によれば、原告冨野の走法そのものについては特に不審な点を認めることはできない。しかしながら、中部自転車競技会は、右レースについて前記三1(一)(2)(ロ)記載の通りいわゆる「八百長崩れ」のレースであると判断した。

(ニ)  以上によれば、被告日自振としては、レースの結果についてはともかくとして、原告冨野と松本組の関係者らとの間に不明朗な背後関係がなかったか否かについて調査し審議する必要があったものと認められる。

(6) (岐阜競輪三日目第八レースについて)

(イ)  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

右レースは九車建で、四番伊藤文男選手が本命、三番加藤修一選手が対抗、一番山口利逸選手が三番人気、二番近藤明選手が四番人気、九番(六枠)坂田正選手が五番人気、七番(五枠)長岡重夫選手が穴という評価であった。そして右の評価を反映して、連勝単式投票の結果は、四―三が五万六一九票、四―一が二万二、八五二票、四―二が一万三、五〇七票、四―五が一万二、〇〇八票、四―六が九、六六四票であった。ところが、前記岐阜競輪場の警備隊員伊地知信義は、右レースについて、松本一美組長が大垣川合派関係のノミ屋から、私設車券一―四を一〇〇枚、四―一を五〇〇枚、四―二を三〇〇枚、四―五を二〇〇枚購入したとの情報を得てその旨報告した。

(ロ)  右に認定した事実によれば松本一美組長の購入した車券の内容は、対抗の三番加藤選手を除外している点に異常性が認められた。

(ハ)  《証拠省略》によれば、昭和四四年一一月一九日午前一〇時四〇分頃、岐阜市内の岩田某と名乗る一ファンから中部自転車競技会岐阜支部長代理大羽豊治に対し、「昨日(岐阜競輪第一節三日目)の第三レースと第八レースはチョイレースだ。大阪の松本と云う親分が来ていて仕組んだレースだ。特に第八レースは、八番の冨野が対抗の加藤を殺したことは明らかだ。このことは場内のファンもよく知っている。折角の楽しみを出来レースでやられてはおこりたくなる。今後充分注意してほしい。」と電話により抗議してきた事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(ニ)  そこで、次に右レースの走行状態について検討する。

《証拠省略》によれば、原告冨野は、スタート後第一周一センターあたりでは九位を走ったが、バックストレッチあたりでは二位に上昇し、他方、三番加藤選手は第一周一センターあたりでは三位を走り、バックストレッチあたりでは四位となり、その後両選手は、第一周二センターあたりから第三周ホームストレッチあたりまで併進するような形で、先頭の六番兼石選手、二位の四番伊藤選手の後を走り、第四周一センターあたりで原告冨野、三番加藤の両選手とも九番坂田選手に抜かれたが、そのまま六番、九番、四番の後を併走して第四周ホームストレッチあたりまで進み、第五周一センターあたりで三番加藤選手がやや前進して原告冨野と併走する状態が崩れ、結局レースの結果は一着四番伊藤選手、二着一番山口選手、三着九番(六枠)坂田選手、四着三番加藤選手、五着二番近藤選手、六着五番(四枠)平林選手、七着七番(五枠)長岡選手、八着八番(六枠)原告冨野、九着六番(五枠)兼石選手の順であったことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(ホ)  《証拠省略》によれば、審判長田口勝義は、前記岐阜競輪一日目第三レースと右レースにおける原告冨野の走行態度について、「第一日、当該選手(原告冨野のこと)は、別紙走行表の通り、第一周回及び第二周回のH・Sにかけ三番選手の外併走で走行し、第三周回に於ては四番手の二番選手に併走した。最終回第一センターから第二コーナーにかけて若干競り合うも、第二コーナー後、内側から後続車に追い抜かれ、決勝線通過は八着と敗退した。

第三日、同選手は、別紙走行表の通り、第一周回より最終回第一センターにかけ終始三番選手の外併走となり、最終回第二コーナー後から後続車に内側を追い抜かれ、その結果八着と敗退した。

以上二日間にわたり、終始特定選手をマークし、最終回に至り敗退したことは、競走の終始を通じ、平素の脚力を充分発揮したものとは見られず、今後一層の努力を望むものである。」と批評したことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(ヘ)  《証拠省略》及び右の(ニ)(ホ)に認定した事実によれば、原告冨野は第一周二センターあたりから第四周ホームストレッチあたりまで三番加藤選手と併走したが、このような走法では、原告冨野にとっても三番加藤選手にとっても、非常に不利になるものであることが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(ト)  以上によれば、被告日自振としては、右レースにおける原告冨野の走行態度そのもの、また、これと松本一美組長の前記異常投票との関連について、調査し審議する必要があったものと認められる。

(二) 右(一)に判示したところによれば、高松競輪一日目第七レースについては業務規程第八七条第一項第一三号等に、同競輪二日目第七レースについては同項第一二号等に、岐阜競輪一日目第三レースについては同項第一三号等に、同競輪二日目第三レースについては同項第六ないし第一一号等に、同競輪三日目第八レースについては同項第一三号等にそれぞれ該当するおそれがあり、被告日自振としてはその調査及び審議をする必要性があったものと認められ、従って原告冨野をあっせん保留にしたことについて何らの違法はないものというべきである。

(三)(1) 《証拠省略》によれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

被告日自振は、昭和四五年七月二〇日付で、原告冨野をあっせん保留にした後、原告冨野と共にレースに出場した選手等を被告日自振に招致して、走行の状況について事情を聴取し、また、被告日自振の専門調査員を使って、原告冨野と暴力団との背後関係について調査した。しかしながら、業務規定第一二六条第一項第三号本文所定の三か月の保留期間内には調査は終了しなかったので、さらに同年一〇月二〇日付で、同号但し書により一か月間保留期間を延長して調査を継続し、同年一一月一七日には原告冨野を被告日自振に招致し、右調査員からの報告等をもとにして事実関係を確認したところ、原告冨野は、暴力団との若干の交友関係があることは認めたものの、その他特に高松競輪及び岐阜競輪での走行あるいは背後関係に関する疑惑について、明確な答弁はなかった。

被告日自振としては、昭和四五年一一月一九日で延長した保留期間も満了することになるが、同時点においては前記各疑惑を認めるに足りるだけの証拠は得られず、さらに期間を延長して調査を継続しても新しい証拠が得られたり、事実関係が判明するとも予測されなかったため、結局前記の通り、昭和四五年一一月二〇日付をもって、疑惑が解消されないままあっせん保留を解除した。

(2) 以上に判示したところによれば、昭和四五年一〇月二〇日付であっせん保留期間を延長したことについてはやむを得ない事由があると認めるのが相当であり、何らの違法は認められない。

(四) 結局、被告日自振が原告冨野に対し、あっせん保留をし、さらにその期間を延長したことにつき、何らの違法はなく、従ってこれらの点について被告日自振は何らの不法行為責任を負うものではない。

四  被告近自競の原告冨野に対するあっせん辞退について

1  《証拠省略》及び前記三2に認定した事実によれば、以下の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(一) 被告日自振が原告冨野に対し、昭和四五年七月二〇日付であっせん保留にした後、被告近自競は原告冨野が被告近自競管内の登録選手であったこともあって、被告日自振の調査・審議の経過については注目していたが、右あっせん保留は前記の通り昭和四五年一一月二〇日付で解除された。

(二) 被告近自競は、あっせん保留が解除された後、独自に原告冨野について調査し、次のような結果を得た。

(1) 被告近自競は、前記高松競輪、岐阜競輪について、被告日自振から売上表、走行表、予想紙等の資料を入手して、これらを分析、検討した結果、特に高松競輪及び岐阜競輪のそれぞれ一日目及び三日目の各競走に疑惑を持った。

(2) 被告近自競は、管内の競輪場の警備隊からの情報として、原告冨野が大川組とかいう暴力団と交友があるとの情報や、原告冨野が参加した競走では同人が不正を行なうというようなうわさが流れるとの情報を得た。

(3) 被告近自競は、原告冨野の事故歴を検討した結果、前記三1(二)(2)に判示した通りあっせん辞退や事故報告がなされたほか、昭和三七年一〇月以降九件(本件で問題になった二件は除く。)の事故報告が送付されていることが判明した。

(三) 被告近自競が、前記の通り、昭和四五年一二月二四日付で原告冨野について被告日自振に対しあっせん辞退をしたのは、右(二)に判示した調査結果により、原告冨野を被告近自競管内の競輪場に出場させれば、競輪の公正及び安全を確保することはできなくなると判断したからに外ならない。

2  右1に認定した事実と前記三2に認定した事実を総合すれば、被告近自競が、昭和四五年一二月当時、原告冨野を管内の競輪場に出場させれば競輪の公正及び安全を確保することは困難になると判断し(但し、その根拠の一つとして高松競輪三日目第三レースの原告冨野の走法に疑惑があるとした点は、前記三2(一)(3)に判示した通り首肯しえないものである)、原告冨野につきあっせん辞退をしたことは、業務規程第一二四条に定める「やむを得ない理由」があったものと認められ、従って被告近自競があっせん辞退をしたことに何ら違法はなく、正当なものとして是認しうるものである。

3  原告両名は、被告近自競が原告冨野についてやむを得ない理由がないにもかかわらず違法にあっせん辞退をしたのであるから、被告日自振としても、これに対して適正に指導し、あっせん辞退を解除するよう指導すべき義務があるのに、これを怠った旨主張するが、以上に判示した通り被告近自競が原告冨野についてあっせん辞退をしたことは何ら違法ではないのであるから、原告両名の右主張はその前提を欠き失当である。

第六(原告両名についてあっせん辞退が継続したことの違法性について)

一  《証拠省略》によれば、原告両名については、前記の通り昭和四五年一二月二四日付で被告近自競よりあっせん辞退されたほか、これと前後して、全国のその他のすべての自転車競技会からも、すなわち、昭和四五年一二月一七日中国自転車競技会及び九州自転車競技会より、同月二一日南関東自転車競技会より、同月二八日中部自転車競技会より、昭和四六年一月六日関東自転車競技会より、同月八日四国自転車競技会より、同月一一日北日本自転車競技会より、それぞれあっせん辞退がなされたため、原告両名はそのころから全国のすべての競輪場について出場あっせんを受けることができなくなり、その状態が継続することとなったことが認められ、結局、原告両名が昭和四七年四月二〇日被告日自振に対し選手登録消除の申請をしたことは、前記第二に判示した通りである。

二  そこで次に、原告両名について右昭和四五年一二月二四日から昭和四七年四月二〇日まであっせん辞退が継続されたことが違法であるか否かについて検討する。

1  自転車競技会があっせん辞退をする場合において、あっせん辞退をする期間については、業務規程第一二四条をはじめ、他に特にこれを定めた規定はない。

2  ところで、前記第三に判示したように、あっせん辞退の制度の目的は競輪を公正かつ安全に実施することにあり、この点ではあっせん保留の制度が目的とするところと同一である。そして、あっせん保留については、前記第三、二1に判示した通り、それぞれの場合に合理的なあっせん保留の期間が定められているのであるが、これと対比した場合、あっせん辞退にその期間の制限について定めのないことは、選手の利益の保護という点からみて不合理であるといわざるをえない。もっとも、前記第三、三2に判示した通り、自転車競技会においては、毎年一〇月に、あっせん辞退をしている選手について、あっせん辞退を継続すべきか否かを検討しているとのことであるが、これをもって選手の利益の保護に十分であるということはできないし、また、本件において、原告両名について右の検討がなされたのか否か、またどのような検討がなされたのか、証拠上必ずしも明らかではない。

特に原告両名のように、全国のすべての自転車競技会からほぼ同時期にあっせん辞退を受け、それがいつまで継続するか不明であるという場合にはその不合理さはさらに明白である。

確かに、競輪選手に起因する事故を未然に防止して、公正かつ安全な競輪の実施を図るためには、あっせん辞退の制度の意義を軽く評価することはできないが、被告日自振としては選手が業務規程第八七条第一項各号に該当する場合には登録を消除することができるのであるから、全国のすべての自転車競技会が長期間に亘ってあっせん辞退を継続する必要があるような場合には、被告日自振が各自転車競技会と連絡を取り、選手の容疑事実を十分に調査したうえ、選手が前記各号に該当すると判断したときには所定の手続きにより登録を消除すればよいのであり、このような手続きもとらず、漫然とあっせん辞退を継続させることは許されないものといわねばならない。けだし、長期間のあっせん辞退が認められるとすれば、あっせん保留の場合にその要件と期間が、また登録消除の場合にその要件と手続きが、それぞれかなり厳格に定められていることを、容易に潜脱し得ることとなるからである。

3  そこで本件の場合に、被告近自競が原告両名に対してなしうるあっせん辞退の合理的な期間としては、前記第五、一2(二)、第五、三2(二)及び右2に判示した点並びに業務規程第一二六条第一項第三号の規定によるあっせん保留の場合にその期間が最長五か月と定められている趣旨などの事情を考慮すれば、せいぜい五か月を限度として許されるにとどまるものと解するのが相当である。

4  以上によれば、被告近自競が原告両名について昭和四五年一二月二四日から五か月を経過した後である昭和四六年五月二四日以降もあっせん辞退を継続したことは違法であるといわざるをえず、被告近自競は、これによって原告両名がそれぞれ受けた後記損害を賠償すべき義務あることは明らかである。そしてこのことは、被告近自競が業務規程あるいは従前の慣行に従ってあっせん辞退を行なったものであったとしても、その責任を免れうるものではないといわねばならない。

三  次に、被告日自振の責任について判断する。

1  被告日自振は、自転車競技法第一二条の一八の規定にもとづき、同法第一二条の定める目的を達成するため業務規程を定めた(業務規程第一条)ものであるところ、右業務規程はもとより合理的な内容のものでなければならないが、前記二2に判示した通り、業務規程中のあっせん辞退に関する部分はとうてい合理的なものと認めることはできない。

2(一)  自転車競技法第一二条の一六によれば、被告日自振は、その業務として、「選手及び自転車の競走前の検査の方法、審判の方法その他競輪の実施方法に関し、自転車競技会を指導する」ものと定められており、また業務規程第一四一条によれば、被告日自振は、「自転車競技会が法令、通商産業省の通達、条例および規則ならびに競輪の実施に関する事務の委託に関する契約書の定めるところに従って、競輪施行者から委託された競輪の実施に関する事務を適確に処理するよう指導する」ものと定められており、これらの規定によれば、被告日自振には、自転車競技会があっせん辞退をする場合に、それが適切妥当になされるように指導すべき義務があるものと解するのが相当である。

《証拠判断省略》

(二) 前記二4に判示した通り、本件においては被告近自競が昭和四六年五月二四日以降も原告両名につきあっせん辞退を継続したのであるが、これに対し被告日自振が右違法なあっせん辞退の継続をやめるよう何らかの指導をしたと認めるに足りる証拠はない。

3  以上によれば、被告日自振もまた、原告両名が本件あっせん辞退の継続により受けた後記損害を賠償すべき義務あるものというべきである。

第七(原告両名の受けた損害について)

一1  原告両名が、いずれも昭和四七年四月二〇日被告日自振に対し選手登録消除の申し出をし、同月二八日付で登録を消除されたことは、前記第二に判示した通りである。

2  《証拠省略》によれば、原告両名が、選手登録消除の申し出をするに至ったのは、いずれも、あっせん保留が解除になった後もあっせんを受けられない状態が続き、その理由も分からず、また将来いつになったらあっせんを受けられるのか見通しがつかなかったことや、また、あっせん保留となってからは収入がなく、経済的にも困ったため、退職金を得る必要があったことによるものであることが認められる。

3  ところで前記第六、二4に判示した通り、被告近自競のなしたあっせん辞退も、昭和四六年五月二四日以降に継続された部分のみが違法なものであるところ(他の各自転車競技会が行なったあっせん辞退についてもそれぞれあっせん辞退をした日から五か月を経過した日以降に継続された部分のみが違法となる)、原告両名が選手登録消除の申し出をしたのは、右昭和四六年五月二四日から約一一か月を経過した時点においてである。そして、前記第三、三2(三)に判示した通り、昭和四七年から昭和四九年にかけて全国のすべての自転車競技会からあっせん辞退を受けていた選手は約一五名いたわけであり、このような事実に照らしてみても、右2に認定した事実のみからは、本件の違法なあっせん辞退の継続と原告両名の選手登録消除の申し出との間に相当因果関係があると認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

以上によれば、結局、被告両名は連帯して原告両名に対し、あっせん辞退が違法となった昭和四六年五月二四日から原告両名が選手登録消除の申し出をした昭和四七年四月二〇日までの間に、競輪選手として得ることのできた利益を損害賠償すべき義務があるが、それ以降の分については損害賠償の義務はないものというべきである。

4(一)  《証拠省略》によれば、原告橋田は昭和四四年度(昭和四四年四月一日から昭和四五年三月三一日まで)には賞金として金一五三万四、六六〇円、出走日当として金二四万円の収入を得たこと、昭和四六年四月一日より賞金額が三割増額されたこと、また、原告橋田が違法なあっせん辞退の継続を受けなければ、昭和四六年五月二四日から昭和四七年四月二〇日までの間(三三三日間)も、少なくとも右増額された賞金額及び出走日当程度の収入を得ることができたものと認められる。従って、右額が本件違法なあっせん辞退の継続と相当因果関係のある損害額であり、その額は金二〇三万九、一〇七円〔(153万4660円×1.3+24万円)×333÷365〕である。

(二) 《証拠省略》によれば、原告冨野は、昭和四四年一月から同年一二月までの間に金一七四万四、一〇〇円を昭和四五年一月から同年七月六日までの間(一八七日間)に金七五万二、二三三円を、それぞれ賞金収入として得たほか、出走日当として年間金二四万円の収入を得たこと、昭和四六年四月一日より賞金額が三割増額されたこと、また、原告冨野が違法なあっせん辞退の継続を受けなければ、昭和四六年五月二四日から昭和四七年四月二〇日までの間(三三三日間)も、少なくとも右増額された賞金額及び出走日当程度の収入を得ることができたものと認められる。従って、右額が本件違法なあっせん辞退の継続と相当因果関係のある損害額であり、その額は金二一七万六、六八〇円〔(174万4100円+76万2233円)×1.3×333÷(365+187)+24万円×333÷365〕である。

(三) 原告両名は精神的損害に対する慰謝料も請求しているが、本件の如き場合においてはそれぞれの財産的損害の賠償によって精神的損害も回復されるものと解すべきであり、特に慰謝料請求権を発生させるような事情も認められないから、慰謝料請求は理由がない。

第八(結論)

以上によれば、原告橋田の本訴請求は、被告両名に対し連帯して、金二〇三万九、一〇七円及びこれに対する不法行為の日の後である昭和四七年四月二八日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるから、これを認容し、その余はいずれも失当であるからこれを棄却すべきものとし、また、原告冨野の本訴請求は、被告両名に対し連帯して、金二一七万六、六八〇円及びこれに対する不法行為の日の後である昭和四七年四月二八日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるから、これを認容し、その余はいずれも失当であるからこれを棄却すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条、第九三条を、仮執行の宣言につき同法第一九六条を、それぞれ適用して、主文の通り判決する。

(裁判長裁判官 松田延雄 裁判官岡本多市、同小見山進は転補のためいずれも署名捺印することができない。裁判長裁判官 松田延雄)

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